命の長さ

この秋、とても悩むことがありました。
それは父の透析話。

元々、父は結石が腎臓にたまり、
片方の腎臓は全く機能していない状態です。
片腎で頑張っているのですが、
その片腎も、機能が落ちてきて、
ついにクレアチニン値が2.9に。
これが3を超えると透析対象になるそうで、
お医者様から、
「透析するかしないか考えておいてください。」
と言われました。

父の認知症は、短期記憶が全くありません。
ついさっき話していたことも、忘れてしまいます。
透析をするか、しないか、ということを話し合っても
「そんなの、しない」(しない)
「医者が言うならしようか。」(する)
「もう長く生きたから、透析なんてしないよ。」(しない)
「しなくてはならないなら、しよう。」(する)
の繰り返しです。

透析を始めたら、止めることが出来ません。
透析の前にはシャント手術もあります。
前回の手術も指示を覚えていられなくて、大変なことに。

透析しなければ、ほどなく命が亡くなります。

本人は「長く生きたからもう、いいな。」と言うものの
その5分後には「僕は95までは生きる。」と言う始末。

誰が決めるのでしょう。
命の長さ、命を救うための処置。
昔は、そのようなことがなかったから、
苦しくても、自然のままに任せるしかなくて、
それは、哀しいことだけれど、でも、
命の決断を迫られることはなかった。

若年性アルツハイマーのドラマが話題になっているようですが、
どうだったのでしょう。
そういう重たい話題も入っていたのでしょうか。

当然、ねずみの兄も決められるわけもなく、
「透析したら、一番大変なのはねずみだしなぁ・・」
と口を濁します。

行き着くことのない堂々巡りの日々が続いています。