生まれながらに罪を背負う

ねずみはキリスト教系の幼稚園に通っていました。
ただ、家が近かったからだと思います。
実家は浄土宗だそうですが、
おうちでお経をあげる人は誰もいませんでしたし、
幼いころは仏壇もありませんでした。

その幼稚園では、
毎朝お祈りの時間があり、賛美歌を歌い、
ご飯の前にはお祈りをし、
劇は「イエス様の誕生」といった幼児劇をしていました。
紙芝居も、迷える子羊みたいなものだったっけ。
絵が美しく、とても楽しみだったのを覚えています。

幼稚園はなくても日曜日は礼拝があり、
家族の中で私だけ通っていました。
幼稚園のお友達が通っていたからです。
何も疑わず、優しさや思いやりにあふれた世界で、
心地よく、温かく素敵な場所でした。

ということで、なぜか家族の中で
私だけがキリスト教信者のようになり、
それは小学生の間続きました。
寝る前には布団の中でお祈りをし、
転校する先々で日曜日には近くの教会に通い、
心地よく温かい時間を過ごしていました。

ところが、中学生になって引越しした山口の教会で、
「ねずみさんも洗礼を受けましょう。」と言われました。
洗礼って何ですか?と聞いた私に神父さまがおっしゃいました。
「人間は生まれながらに罪を持っています。
その原罪を許してもらうのです。」

これにはショックを受けました。
私の幼稚園時代から信じていたイエスキリストは、
誰でも許してくださる、温かい優しい人でした。
小さな虫や、草花にも愛を注ぐような人だと思っていました。
何もしていない生まれたばかりの赤子でさえ、罪を持っている?!
洗礼を受けないと、その罪は許して貰えないの?!
そんな馬鹿な話ってある?!

そこから宗教について、調べ出しました。
そして宗教も経営とは切り離せないのだということを知りました。
相変わらず寝る前の布団の中のお祈りは続いていましたが、
それは決して教会の神様に対してではなく、
全宇宙の万物を司る何か、に対してに変化していきました。
その神はけっして献金も求めなければ、
見返りも求めない、すべての生き物に平等な何かでした。

教会には洗礼のお話をいただいて以来
一回も(礼拝という形では)行っていません。

人はとても苦しいことがあると、
つい何かに頼りたくなります。
ねずみもそうです。
お友達に話を聞いて貰ったり、
ツイッターでつぶやいたり。
私自身も誰かが苦しんでいたら助けたいし、助けて貰いたい。
でも、それは、決して条件(献金や労働)つきではない。
条件をつけてしまったら、
それは交渉や、契約になってしまって、
善意はなくなってしまうと思うのです。

ましてや、生まれながらに罪を背負うなんて、
人生マイナスから始まるみたいで楽しくない。
生きていて、温かい春風が吹いて、花が咲いていて、
生き物ならば理屈なく喜びが湧いてくるのです。
そこに、原罪なんて存在しない。

夫は冗談で言います。
「人間はリンゴを無断で食べちゃったからね。」
ねずみは思いました。
でも赤くておいしそうな物だったら食べてみたくなるでしょ?!
それが人間の好奇心でしょ!?
だから、人間が発展してきたんでしょ?!
私でも食べるなぁ・・・でも、それは罪じゃない。

素直とは程遠いねずみ。
生まれながらに罪を負うという考えは
到底容認できないものなのでした。